SPECIAL INTERVIEW

分校弘明

㈱ソニー・ミュージックレーベルズ 第3レーベルグループ アリオラジャパン第一制作部 課長

―アーティストが作品を生み出すために、そして、それをひとりでも多くのリスナーに届けるために、レーベルにはさまざまな業務を担当するスタッフがいる。そのさまざまな業務を大きく分けると、制作、宣伝、営業の3つとなり、分校弘明氏は今日に至るまで、そのすべてを担当してきた。分校氏は現在、Ariola Japan第一制作部の課長で、ここがまさに平井堅の全体のプランニングを担うセクションというわけなのだが、分校氏自身のキャリアのスタートは1998年。平井堅で言うと、シングル『Love Love Love』がリリースされる少し前のことである。
「最初は大阪営業所の勤務でした。営業所には現地のレコード店をまわる営業と、現地の媒体をまわるプロモーターがいて、僕は営業。毎月、新譜受注書……注文書のことですね、それを持ってレコード店へ行くんです。」
―このときの分校氏は、特定のレーベルでなく、Sony Music Entertainment所属アーティストのカタログすべてを担当していた。
「僕が入社した1998年は、ひと月に200タイトルくらい作品がリリースされることもあったので、正直、その全アーティストについてしっかりと把握するのは難しいこともあり、当時の平井さんのこともあまり知らなかったです。」
―しかし「とあること」で平井堅の名前は記憶に残ることになる。
「『Love Love Love』のリリースは1998年の5月29日、受注は1ヶ月前なので4月。新入社員として、先輩の受注のやりとりをまだ横で見ていたときのことですけど、受注書には翌月リリースのアーティスト名と作品名があって、作品説明のところには、シングルだったらなにかの主題歌であるとか、アルバムだったらこういうシングル曲を収録しているとか、そういう説明が書かれていて、それをお店の方に見せながらそのお店の入荷枚数を決めていくんですね。で、作品説明が長ければ長いほどその部分の枠は広いんですけど、『Love Love Love』は幅がすごく狭くて(苦笑)、しかもその狭い枠に歌バカのマークがあったので、なんとなく記憶に残ったんですよね。」
―熱唱する平井堅の横顔をイラスト化した「歌バカのマーク」は受注書だけでなく、『Love Love Love』のCDのリーフレットとミュージックビデオのオープニングにも登場させていた。
「大阪には1年半近くいて、そのあとは東京。販売推進部という、営業部門をまとめる統括セクションへ異動になりました。1999年6月くらいのことで、僕はSony Music Associated Recordsの販推。担当のA&Rと密に、たくさんのやりとりをしなければならなかったので、大阪の営業時代のように全カタログを持つことはなかったです。感覚的には、CDを売る現場からもっと制作する現場の意見や気持ちが伝わる距離感になったのかな、という感じでしたね。」
―「A&R」とはArtists and Repertoire(アーティスト・アンド・レパートリー)の略。アーティストの発掘や育成、アーティストとの契約、担当アーティストの楽曲やミュージックビデオ制作、そのリリースに関わる業務などを担当する職務で、だから、レーベル内においてはアーティスト、そしてマネージャーにもっとも近い位置にいるスタッフということになる。
「僕が販推を担当していた頃は、まだデジタル販売がない時代だったので、売り上げに繋がる店頭展開をどのようなものにするかが主な施策でしたね。のちに僕は(当時、平井堅が所属していた)DefSTAR RECORDSでも販推を担当することになるんですけど、そのときは、アートワークにせよ店頭展開にせよ、平井さんのビジュアル的な強みをきちんと出すという戦略があって、要は、アーティストの特性をどう活かすかで、でもアーティストに吹く風はフォローのときもあればアゲインストのときもあるので、そこでいわゆる、イニシャル(CD初回出荷数)というシビアな数字を決めることが販推にとってもA&Rにとっても切磋琢磨するところになるわけです。」
―「イニシャル」とは初回出荷枚数のことで、たとえば2000年の大ヒット曲『楽園』のイニシャルは3000枚程度だったと言われている。その当時の分校氏は平井堅が所属するレーベルの業務担当ではなかったが、『楽園』のヒットを冷静に見ていた。
「1998年の入社当初から平井さんのことをすごく推していた僕の同期が札幌営業所にいて、大阪営業所に電話してきたことがあったんですよ、“受注書にある平井堅って知ってる?”って。僕は、歌バカのマークのことをふと思い出し、知ってるよということになり……ただ平井さん、『Love Love Love』のあと、『楽園』までしばらくリリースがなくなるんですよね。それでも僕の同期は、なんとか店頭で平井さんを展開してもらおうと旧譜キャンペーンを提案したり、一方で、それに協力してくださる店舗が北海道にはあって、そういうことが『楽園』のヒットに繋がったわけなんですけど、その当時、僕は販推という数字を管理する部署にいたのでいつも数字のチェックをしていて……イニシャルは少ないのに特定の、たとえば北海道では『楽園』の売り上げ比率がすごく高かったんです。その頃、日本全国でCDを置く店舗は5000店くらいで、ソニーの直営店舗と契約店舗は3000店くらい。その3000店がCDを1枚ずつ入荷したら3000枚になるんですけど、1枚だけでは店頭で目立たないわけです。だったら100店に30枚入荷したほうが目立つ。『楽園』にはそういう戦略があったんです。」
―イニシャルはどのようにして決められるのか。分校氏は2001年から、販売推進という担当業務はそのままに、DefSTAR RECORDS、つまりは平井堅の作品に直接携わるレーベル担当に異動となった。そこでの最初のリリースは、シングル『KISS OF LIFE』。
「月9の主題歌だったので(フジテレビ系ドラマ『ラブ・レボリューション』)、過去の月9の主題歌のセールスを調べた上で決めたのですが、なんと言ってもイニシャルはそのアーティストの過去実績が重要。でも、2001年の時点では、アベレージでこれだけ売れたという平井さん個人のデータが少なかったので、マーケットのサイズが近いアーティストの数字を参考にしたりもしました。ただ、いちばんのリアルはお店です。日々、CDを扱い、しかもソニーだけでなくたくさんの会社の商品を売っていて、そのどれがどれくらい売れているのかもわかっていて、お客さんの顔も見ているお店の方が出す受注枚数は、ほぼほぼ当たります。でもこちらにも目標設定はありますし、勝負をかけたいときは枚数を多く乗せることもありますし、ほんとうは5枚で良かったのに同意して30枚入荷したらお店側はそれを売るために、より良い場所にCDを置こうかということにもなるので、イニシャルは店頭展開に影響するんです。それで売れたこともあれば売れなかったこともあるんですけど、そういう押し引きも販推の仕事。」
―平井堅の作品で言うと、2002年にリリースされた4枚のシングルが「僕の販推でいちばん大変な時期」と分校氏は振り返る。ではまず、2月リリースの『Missin' you ~It will break my heart~』。
「Babyfaceのプロデュース作品。当時、Babyfaceと日本人アーティストがコラボレーションするのは斬新でしたし、だから当時のA&Rはこの曲で勝負したい、売りたいと強くアピールしてきたので、その熱を尊重して思いっきりアクセルを踏んだら、思ったほどの売り上げが残せなかったんです。」
―次は5月リリースの『Strawberry Sex』。
「結果的には、ライブで欠かせない平井さんの代表曲になったわけですけど、当時、平井さんのファンクナンバーがどれだけウケるのかは、正直、難しいと思いましたね。前作でアクセルを踏んだぶん、なかなか踏めない、前作の在庫もある、でもこれで挽回しましょうということになったんですが、今回も売り上げは思ったほどではなかった。」
―3枚目は8月リリースの『大きな古時計』。この童謡カバーで平井堅は初めてシングルチャートで1位を記録する。
「いろんなことをシミュレーションして数字を決めるわけですけど、前作、前々作が予想以下のセールスだった場合、僕を含めた営業サイドの反応は、次は大丈夫ですか、みたいになってしまうんです。その時点で『大きな古時計』は、ブレイク以降の平井さんでいちばん低いイニシャルでした。そもそもカバー曲のシングルを出すことにも営業はもちろんレコード店でも賛否両論あって、ところが店頭入荷日(リリース前日の8月27日)に7割から8割売れて、イニシャルが少なかったので発売日(8月28日)には世の中から『大きな古時計』のCDがほぼなくなってしまったんです。緊急でトラックを走らせて、普段は絶対にやらない土曜日出荷(リリースは水曜日)をして週末を乗り切ったりもしましたけど、“やっちゃったな”って感じでしたね。」
―そして11月リリースの『Ring』も大ヒット。平井堅が作詞作曲したオリジナルとして、初めてチャート1位を記録したシングル曲となった。2002年を「ジェットコースターのようだった」とも振り返った分校氏は、その翌年リリースのアルバム『LIFE is...』まで販売推進部に属し、以降は新作リリース時に各媒体へプロモーション展開を交渉するといった業務が軸となる宣伝部に異動し、2006年のシングル『バイマイメロディー』からは平井堅のA&R担当となった。
「僕が販売推進を担当していたときのA&Rは、営業や販売推進の経験者はほとんどいなかったんです。たいがいが宣伝担当だったスタッフで、だから僕は、イニシャルの数字より、どんな店頭展開をするのかということを重視したんです。お店で売るための手法はいくつも学んでいたので、今度はこういう曲だからこういう展開をしてみたいんだけどできるかなと、できるとわかった上で提案していたので、僕が平井さんのA&Rを担当してきたときの販売推進のスタッフは、僕のことを面倒くさいと思っていたはずですよ(笑)」
―分校氏は、平井堅のA&R担当時代の自分をこうも振り返った。
「CDを売る現場を体験しているので、ドライに数字を見ていたところはありましたね。すっごく良い曲ができあがった、これは今年いちばんの曲かも、みたいな熱で盛り上がることはあるのに、数字の話をし始めた途端、妙に冷静になってしまう自分もいたんです。ただ、そのA&R時代に僕のやりたいことを決めてくれたのは平井さんなんです。そのとき、流行歌を生み出すことがA&Rとしての醍醐味だと思ったからで、そういう作品を平井さんは作っていましたから。もちろん、数字を残せるよういろいろな戦略を練ることも大切ですけど、発売されてから5年後のことなのか10年後のことなのか、それよりもっとあとのことなのかはわからないにしても、この曲があの時代の、あのときの代表曲だよねと、ひとりでも多くの人に言ってもらえるような流行歌を生み出すためにこの仕事をしているんだなって思ったんです。だから、引き続き平井さんには流行歌を作ってほしいですし、人の心に刻まれるような曲を楽しみに待っていますし、僕の今の立場で、現場のスタッフたちと一緒に平井さんのサポートをしっかりとしていきたいです。」

Ken Hirai Interview Top

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