SPECIAL INTERVIEW

瀬間祐子

音楽雑誌『GB』『PATi・PATi』(エムオン・エンタテイメント)編集者
㈱ソニー・ミュージックソリューションズ F.A.N.プロデューサー(現職)

―2016年1月17日。平井堅が44回目の誕生日を迎えたその日、完全受注限定の豪華本が発売された。音楽雑誌の『GB』と『PATi・PATi』と『WHAT’s IN?』と『BREaTH』(すべてソニー・マガジンズ、後にエムオン・エンタテインメント)に掲載された平井堅の記事を残らずアーカイブした1冊と、新規の撮り下ろし写真やインタビューなどをまとめた1冊をボックスに収納した『歌バカ二十年』(エムオン・エンタテインメント)がそれである。タイトルから、そして発売タイミングからもわかる通り、平井堅のデビュー20周年を記念して制作したもので、瀬間祐子氏は『歌バカ二十年』のプロデューサーであり、編集責任者。もっと言うと、『歌バカ二十年』の中でもっとも古い記事は『GB』1995年6月号掲載分なのだが、1995年当時、そのページの編集を担当していたのも瀬間氏であった。
「私は1992年の入社で、最初は『PATi・PATi』の編集部だったんですが、平井さんがデビューした1995年に『GB』へ異動になったんです。どちらも音楽性だけでなく、アーティストのビジュアルも大事にする雑誌だったので、若くて、背が高くて、キラキラした平井さんを記事にしない理由はなかったですね。」
―平井堅のデビュー曲『Precious Junk』のトピックは、なんと言っても三谷幸喜脚本によるフジテレビ系ドラマ『王様のレストラン』主題歌だったことなのだが、それと同じくらい、『GB』編集部にとって平井堅のルックスは重要だった。
「レコード会社のプロモーターから平井さんのプレゼンを受けたときに見たアー写(アーティスト写真。所属事務所やレコード会社がアーティストを宣伝するために各媒体へ提供する写真素材のこと)は、とてもオシャレな感じがしたのに、初めてお会いしたときの印象は、ちょっと田舎くさい感じでしたけど(笑)、キャラは最高でした。素朴さはありつつ、ライターさんがツッコミを入れるとおもしろい返しをちゃんと、何度もしてくれたので。雑誌はキャラも重要ですから。発言を文字にしないといけないわけですからね。」
―以降も瀬間氏は『GB』において、1995年8月号では2枚目のシングル『片方ずつのイヤフォン』、1996年1月号では3枚目のシングル『横顔』のインタビュー記事を作成。誌面を通じ、平井堅の応援を続けた。
「編集者にはそれぞれプッシュしたいアーティストがいるので、私にとっての平井さんのような存在が同じ編集部の他のスタッフにもいるんです。だから毎号、ページの取り合い。それが編集会議なんですけど、“平井堅好きだよねぇ”みたいに、冷たい目で見られちゃうこともあったんです。でも、音楽的にもキャラ的にもどんどん好きになっていったので、なんとか掲載ページを確保して、取材をして、記事を作っていきたかった。」
―平井堅の作品がセールス、チャートアクションで誰にとってもわかりやすい数字を残していたら、編集会議での瀬間氏の戦いは、ひょっとしたら、多少は楽なものになっていたのかもしれない。
「情報誌と呼ばれる雑誌は、新作のリリースか、新しい情報をもとに記事を作るんですけど、『GB』はそれだけじゃなかった。そうなると、企画力が勝負になるわけです。そのアーティストの作品が売れている、売れていないじゃなく、こんなにおもしろい人がいるんだ、その人でこんなおもしろいことをするんだというアピールをして、編集長を説得させるんです。」
―瀬間氏は手にした『歌バカ二十年』をパラパラとめくりながら、ページ争奪戦の成果をいくつか話してくれた。まずは、1996年2月号掲載の『電波に乗って』。
「平井さんのラジオのレギュラー番組(bayfmの『Sparkling Factory』)に密着するという企画なんですけど、すごいですよね、密着するだけでページを作っちゃうって(笑)。しかも私、憶えていなかったんですけど、取材陣、遅刻してるんですね(笑)。スタジオの場所を間違え、高速道路の出口を間違え、生放送が始まったときはまだ移動する車の中にいて、平井さんの声をスタジオじゃなくて普通にラジオで聴いていたという記事を今読んでウケちゃいました(笑)」
―1997年4月号には、その年の1月31日に渋谷のCLUB QUATTROで行われた「Winter Tour '97『Stare At』」のライブレポート。
「ライターさんだけじゃなく、読者をライブに招待して、読者のレポートも掲載するという、読者巻き込み企画。編集長を説得させるための、よくあるテといえばよくあるテです(笑)」
―1997年10月号には『“裏”平井堅を探る』という(幻の)連載企画。
「平井さんのキャラにフォーカスしたインタビューシリーズになるはずだったんです。だから『~第1回目・意外とあきっぽい平井君~』とあるんですけど、これ、編集長に切られたので、2回目以降がない(笑)」
―他にも、1997年5月号では、ブレイク前の平井堅が札幌で人気があったことに着目し、ズバリ、『札幌で人気がある理由』というタイトルのインタビュー記事を作成し、翌月の6月号では、『“春”だから、“初めての話”~初めての東京、一人暮らしetc.~』という季節ネタを入り口に近況の音楽活動について訊くという、瀬間氏曰く、「涙ぐましい努力」で平井堅を『GB』に掲載するための企画を考え続けた。
「読者からの反応は、正直、悪いとは言い切れなかったですけど、ドカン!という感じのものでもなかったです。だから、私も苦しいところはありました。とは言え、アーティストに対する愛情って大事ですから、企画力だけじゃなく、愛情の深さでも勝負していくしかなかったんです。」
―その瀬間氏の愛情に応える形になったと言うべきか、平井堅は瀬間氏の結婚式に出席し、瀬間氏のために1曲披露している。
「2000年5月のことです。その年の1月に『楽園』が発売されて、でもすぐにはヒットせず、その後、じわじわと数字を伸ばしていったんですよね。だから結婚式のときは平井さんの名前も顔も広まってきていて、式の招待客は、“あっ!”となったわけです。式が3ヵ月早かったらそうはならなかった(笑)。そこで私は『Love Love Love』を歌ってほしいとリクエストしたんですけど、ピアノなしでは無理ということで、(坂本九の)『見上げてごらん夜の星を』を平井さんひとりで、アカペラで歌っていただきました。」
―その後、平井堅はヒット曲を連発。スター街道をまっしぐらに突き進むことになるのだが、結婚式の翌年、瀬間氏は産休となり、編集者としての平井堅に対する応援もひと休みとなる。
「平井さん、すごいことになってきているなあと、我が子を抱きながらテレビを見ていましたよ。感慨深かったですね。」
―産休明けは『PATi・PATi』編集部などに在籍。『GB』時代のように瀬間氏が平井堅の取材をすることはなくなったが、決して熱を失ったというわけでなく、だから時機をうかがっていた。2010年のことである。
「デビュー15周年のタイミングで、アーティストブックを作りたいと考えたんです。また平井さんと仕事がしたいということもありましたし、ひとりのアーティストの歴史を、紙媒体で見られるものにパッケージしたい気持ちもあったからで、それをマネージャーさんに相談したら、私が話したタイミングがちょっと遅くて、準備期間を考えると間に合わない、5年後の20周年のときにやりましょうか、という話になったんです。」
―たしかにそうなった。「5年後」には『歌バカ二十年』が完成した。しかし、瀬間氏は5年も待たなかった。
「とにかく、なにか形にしたかった。そこで、『Ken’s Bar』のアニバーサリーブックを作るのはどうかと考えたんです。2013年の開店15周年のタイミングで、過去のライブ写真を集めて、セットリスト、撮り下ろし写真やインタビューも載せた本を出しましょうよと、マネージャーさんに提案したんです。」
―瀬間氏は『Ken’s Bar』開店当時の、貴重な目撃者のひとりでもある。
「ずいぶんとあとになってから、思うようにリリースができない、歌う機会が減ってきてしまった状況で生まれた苦肉の策が『Ken’s Bar』だったことを平井さんのインタビューで知ったんですが、1998年当時はそういうこと、なんにも知らなかったです。と言うか、大久保でライブをすること自体、インパクトありましたから。韓流ブーム前の大久保駅周辺は寂れていて、今みたいな明るいムードはなかったですし、ON AIR Okubo PLUSという会場もぜんぜん知らなかった。で、行ってみるとテーブルと椅子がずらっと並んでいて、見たことない光景にびっくりして、ライブのコンセプトもおもしろいと思った。アコースティックでいろんな人のカバーを織り交ぜたり、オリジナルのコースターが用意されていたり、それをマンスリーで展開していくって、すごいことをやり始めたなって思っていました。」
―当然、その驚きを瀬間氏は誌面化しようと考えた。が、実現できなかった。
「写真撮影をさせてもらえなかったからです。理由を聞いたらなるほどで、本人も緊張している、お客さんもしーんとなってライブを観ている中、カシャカシャとシャッター音を立てるわけにはいかないと。だから記事を作るのを諦めたんです。」
―その15年後は諦めなかった。『Ken’s Bar』15年間の歴史をアーカイブした『Ken’s Bar 15th Anniversary Special』(エムオン・エンタテインメント)を完成させた。この本の発売は12月7日、『Ken’s Bar 15th Anniversary Special! vol.3』と題した全国ツアーの初日だった。
「会場(宮城・セキスイハイムスーパーアリーナ)でも売りましょうということになったので、私、仙台へ行ったんですね。ところがその日、『Love Love Love』をやらなかったんですよ! 私、衝撃でした。」
―『Ken’s Bar』開店初日の1998年5月29日は『Love Love Love』の発売日でもあり、もちろんその日に披露されている。
「『Ken’s Bar』開店の日に歌った大事な曲を、15周年記念ツアーの初日になんでやらなかったのか、楽屋で本人に訊いたら、“えっ!?”って。そのあと、打ち上げにお誘いいただいてご飯を食べに行ったんですけど、そこで平井さん、コースターの裏になにか書いているんですよ。なんだろうと思ったら、ツアーのセットリストを考え直していて、“やっぱり『Love Love Love』はセットリストに入れることにした”って。」
―たしかに、その後の大阪、徳島、札幌、横浜公演で『Love Love Love』は披露されている。かわりに『Precious Junk』がセットリストから外されてしまったが、その『Precious Junk』からの20年間をまとめたものが、『歌バカ二十年』というわけである。
「音楽雑誌が休刊になったり、紙媒体の売り上げが落ちたりという時代ではあったんですけど、紙でなにができるのか、じつは紙は終わってなんかいない、という世の中に対するアンチテーゼでもあったんです、『歌バカ二十年』は。過去のバックナンバーを全部集めたりチェックしたり、この本を作るためにどれだけ徹夜したか、必死でしたね。でも、思えば、ずっとそれだったんです。なんとかして平井堅の魅力を伝えたいという思いで企画を考えページを作っていたわけですから。じつは私、平井さんと同じ年なので、同じ業界を、同じ時間、ずっと共に生きてきたという勝手な同期感、同士感があるんですよ(笑)。だから、それがいつのことになるのかはわからないですけど、また、なにかで、一緒にお仕事することがあるかもしれないですし、それまでも、そのあとも、平井さんには素晴らしい歌声を聴かせてほしいなって思っています。」

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