INTERVIRE STAFF INTERVIEW

板谷栄司

フジテレビ美術制作局統括担当部長

―現在、フジテレビの美術制作局統括担当部長である板谷栄司氏。美術制作局と平井堅にどのような直接的な関係があるのかというと、接点はセクションではなく、板谷氏本人。板谷氏はフジテレビのいくつもの音楽番組の演出、プロデューサーを20年にわたって務めた人物で、平井堅のファンであれば、と限定せずとも、邦楽好きであれば、板谷氏の手がけた番組を観たことがないという人はいないのではないか。では、どんなものがあったのかを具体的に挙げると、たとえば『MUSIC FAIR』。
「平井くんの初出演は2002年5月18日の放送分で、トピックスとしては1964年に『MUSIC FAIR』は始まっていますが、番組初の海外ロケでした。『Missin' you ~It will break my heart~』(2002年1月発表作)のプロデューサー、Babyfaceとの共演を収録するのが目的で、場所はロサンゼルスの、ハリウッドセンタースタジオというハリウッドの映画撮影用の大きなスタジオ。平井くんとは、それ以前に『Ken’s Bar』を観に行ったことがあったので、会うのは初めてではなかったのですが、初めての仕事が海外ロケだったということもあってか、薄い緊張感みたいなものはありましたね。でも、俺様がみたいなところや自分を良く見せようとするところもない人だったので、仕事に集中出来、困ることは何もなかったですね。」
―では、もう一方のスターはどうだったのか。
「撮影当日、平井くんと数名のスタッフでBabyfaceをスタジオの横道で待っていたら、時間ぴったりに一人でニコニコしながらゆっくり歩いて来たんですよ。僕たちはてっきり、リムジンに乗って、たくさんのお付きの方たちと一緒に来るんだろうなと思い込んでいたので、本人が近づくにつれ、“似てる人なんじゃないの?”ってコソコソ言ったりしていたんですけど(笑)、平井くんが“Babyfaceだ!”と言い切ってたのがとても印象的でした。そのあと、すぐに二人のトークを収録。その後、互いに歌い分けの確認をしたあと、数回のリハーサルを重ねて、一発本番ですばらしい共演はあっという間に終了。記念撮影をしたら、Babyfaceはまたひとりで帰って行きました。なんの問題もなく、幸せな時間が淡々と過ぎていった海外ロケでした。」
―この日米スター共演のテレビ収録からほどなくして、板谷氏はかなり大胆なアイデアを平井堅サイドに提案する。いや、懇願と呼ぶべきか。
「その頃のフジテレビの音楽番組はゴールデンタイムに『HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP』があって、アーティストがパフォーマンスをするステージは電飾とバリライト(多数の光の方向、色彩、量を自在に遠隔操作できる照明装置のこと)でキラッキラしていたんですが、それとはまったく反対の音楽番組を作りたいと思っていました。そろそろ自分の番組を作りたいと考えていた時期でもあったので、そこで思い付いたのが『Ken’s Bar』でした。『Ken’s Bar』のようなアコースティックな音楽番組を作りたい。実現するかどうかわからないが、どうしてもパイロット版だけのライブを収録させてほしい、パイロット版のためだけに歌ってほしいというお願いをしました。」
―ここで言う「パイロット版」とは、試作、試写のこと。板谷氏が目指す新しい音楽番組制作のイメージを社内スタッフらに共有してもらうためには映像が必要で、となれば、本物のパフォーマンスも必要ということになる。
「あの日の事は決して忘れられませんが、銀座のコリドー街の居酒屋でお願いをしました。マネージャーにはきょとんとされ、レコード会社の担当からは“なんとかなれば……”みたいな感じで言われ、3人で膝を詰めて話したことが今でも忘れられないです。それからしばらく経ち快諾の連絡、ガッツポーズですよ! だってパイロット版ですからね、オンエアされる予定のない収録で10曲くらい歌ってくださいというお願いでしたからね。それで、お台場のスタジオドリームメーカー(フジテレビ向かいのメディアージュにあった公開型スタジオ施設。2007年に業務終了)で収録することになりました。会場は天井がものすごく低かったので、ライブにはファンクラブ会員の方、150名くらいに集まってもらいましたが、2メートル程度前から全員床に、カウンターチェアに座った平井くんを取り囲むように体育座りをして観てもらいました。平井くんは、収録後の感想で、“椅子に座っているかいないかの違いなのに、なんか友達っぽい感じと言えるというか、近所のおばさんもいそうな、すぐ声をかけたくなる距離で、いつもよりもフレンドリーな気持ちで歌えました”って言ってくれました。」
―結果として、大変にスペシャルなこのパフォーマンスの模様はBSフジで2002年7月13日にオンエアされたのだが、では、もう一方の結果はどうだったのか。
「当時のフジテレビはバラエティ全盛の時代でしたので、音楽番組が新たに参入するのは本当に難しかったのですが、いろいろと良い方向へ転がって、2004年4月に新番組が、誕生しました。」
―その新しい音楽番組とは、『僕らの音楽』。平井堅は2004年4月24日オンエアの第4回目に最初の出演をしている。
「そのとき歌ったのは『KISS OF LIFE』、『瞳をとじて』と、吉田美奈子さんとの初共演『星の夜』。このコラボレーションがとんでもなく良い出来で、新番組の共演設定をとんでもないレベルに平井くんが勝手に上げたがために、そのあとに出演するアーティストがみんな困ってしまったんですよ(笑)。そういう意味では、平井くんがフラッグを遠いところに立ててくれたと言いますか、深く音楽を楽しむ世界に連れて行ってくれた様な素敵な収録でした。忘れられないです。」
―『僕らの音楽』で板谷氏は照明の演出に強くこだわった。
「映像で重要なのはライティング。良い歌も明かりがイマイチだったら良い曲も良く映らない。伝わらない。ぼくは、ピンスポット(ピンポイントで演者に当てる照明のこと)の硬いライティングよりも、間接の柔らかい光のほうが好きなので、『僕らの音楽』を立ち上げるとき、シャンデリアを用意しました。たとえばアメリカの『MTVアンプラグド』ではたくさんのロウソクを使っていて、でも日本のスタジオでは消防法でたくさんのロウソクが使えません。それで、シャンデリアはどうかなと思いました。ただ、今でこそ売ってますが、2000年代の前半、1メートル以上もあるシャンデリアを売っているお店は全くなく、だから美術のデザイナーと一緒にロサンゼルスまで行って、大きなシャンデリアと、それから真っ黒なシャンデリアもあったのでそれを買い、スタジオに吊りました。しかも床に着くくらい低い位置に。そうするとシャンデリアの細かいキラキラした感じが下から顔にうっすらと当たり、とても柔らかく良いんですよ。」
―もちろん、演者の立ち位置やカメラのアングルにもこだわる。
「たとえば、リズムセクションをボーカルの後方、ストリングスをボーカルに近い前方に配置した場合、平井くんのように身長が高い人だと、ストリングスとボーカルを一緒に撮ると高低差がつきすぎバランスが悪いのです。ストリングスからボーカルを撮ると仰ぎ見る形になるので、カウンターチェアに座って歌ってもらえませんか、というお願いをしたことはあります。他にも、ワンコーラス目はこっち、ツーコーラス目はあっちを向いてね、というお願いをすることも多々あって、それは背景を変えたいからです。」
―より良い映像を撮るため、番組に出演するアーティストに板谷氏はいろんなお願いをする。
「2009年(5月29日オンエア)の『僕らの音楽』で平井くん、薬師丸ひろ子さんと対談をしました。その回に平井くんは薬師丸さんの『Woman “Wの悲劇”より』を歌いましたが、2年後の『FNS歌謡祭』では薬師丸さんと一緒に歌いました(2011年12月3日オンエア)。僕はいつかこの二人の共演を撮りたいと思っていたので、それはそれは大変嬉しかったですね。間奏のとき、平井くんが後ろのほうから、4~5メートルくらいゆっくり歩いてきて、二人が向かい合うのですが、僕は平井くんと薬師丸さんに、しっかりと見つめ合ってくださいというお願いをしました。が、二人は“それだと歌えません!”とか言ってたんですけど、本番ではとっても素敵な表情で自然に歌ってくれました。」
―そう、板谷氏は『FNS歌謡祭』の総合演出を2002年~2011年の10年連続していた時期もあった。繰り返すが、邦楽好きであれば、板谷氏の手がけた音楽番組を観たことがない人はやっぱりいないのではないか。そして、その『FNS歌謡祭』にせよ、『僕らの音楽』にせよ、平井堅は幾度となく板谷氏の番組に出演している。
「『大きな古時計』、『哀歌(エレジー)』、『告白』、『ソレデモシタイ』……次はどんな曲を制作してくるのかっていう楽しみが平井くんにはありました。小さく、すごく細かく、大きく、大胆にどんどん進化していくアーティストですから。将棋の駒で言うと、角なんですね。飛車と角は将棋において重要な駒で、飛車は前後左右と動きが読みやすいのですが、角は斜めに動く駒なので、油断していると突然、斜め後ろから、斜め前から飛んでくるのです。だからこちらも毎回、どんなふうに撮ろうか考えるわけです、知恵を絞るわけです、悩むわけです。同じ手は使いたくないですし、平井くんに“板谷さん、鈍ってきたんじゃない?”みたいなこと言われても困りますし(笑)。こちらにも作品を作る生みの苦しみがあるのですが、それが又楽しいんですね。立ち止まっては考えの繰り返し、それが小さなことであっても、ちょっとずつ変化を求めていかないと前には進めないわけですし。」
―つねにフレッシュな何かを求めようとする板谷氏のスタンスは、平井堅の創作活動と重なるものがある。だから、将来、ひょっとしたら、将棋の角の動きのようなことが二人に起こるかもしれない。
「僕は今、美術制作局で展覧会の企画のプロデュースをやっています。20年くらいやってきた音楽担当だったときとは違う窓口ですけど、アートという新しい切り口で平井くんと仕事ができたらなって思います。平井くんは平井くんで進化を続け、小さな変化も大きな変化もしっかりと自分で理解をした上で作品を生むアーティストですから、どこが平井堅なのかわからないというくらいの作品を生む平井くんでいてほしいですね」

Ken Hirai Interview Top

Ken Hirai Interview Top

MORE