INTERVIRE STAFF INTERVIEW

藤原俊輔

㈱ソニー・ミュージックレーベルズ 執行役員

―長い。平井堅との付き合いは、レーベル関係者の中ではもっとも長い。現在、ソニー・ミュージックレーベルズ・第3レーベルグループ代表である藤原俊輔氏のことで、藤原氏は、DefSTAR RECORDSの代表取締役を務めていたこともあれば、Sony Recordsの大阪営業所でデビュー時の平井堅の宣伝担当をしていたこともあった。平井堅とはなにかと縁のある人物で、長いだけでなく、深い関係性だった時期もある。その始まりは「Tプロジェクト」だった。
「1996年の10月くらいだったと思いますが、社内に新しい部署ができるということで大阪から東京へ転勤になりました。部署にはまだ当時の上司であった吉田敬と僕の二人で、そこで平井堅の担当になりました」
―「Tプロジェクト」とは、のちに平井堅が在籍することになるレーベルの前身で、そのDefSTAR RECORDSは2000年に発足。吉田氏が初代代表取締役として就任した。
「まず始めたのは、デモテープ作り。どんなことがやりたいのかとか、今はこういうものが流行っているからやってみようかとか、いろんなことを平井と話し合ってデモを50曲くらい作ったんですけど、吉田には“ピンとこない”と言われ(笑)、それは、楽曲が良くなかったからなのか、楽曲を発表する状況を整えていなかったからなのか、たぶんどっちもだったんでしょうけど……」
―当時の平井堅の状況は端的に言って、良くなかった。たとえば、シングルの出荷枚数。1995年6月リリースの2nd『片方ずつのイヤフォン』からは徐々に減少していく傾向にあった。藤原氏はその風向きを変えようとしたが、ふたりの足並みがまだ揃っていなかったことも吉田氏の言う「ピンとこない」原因のひとつだったのかもしれない。藤原氏は平井堅との相性についてこう述べている。
「平井は、僕のことはよくわからないと言ってたらしいですけど(笑)、単純に、好きなものやセンスは、ぜんぜん違ってました。平井は好きだったら好きという気持ちをそのまま言葉にする。まっすぐなんです。僕は平井堅はルックスも良いし、歌唱力も素晴らしいので、もっと時代性を意識して、洗練されたものにすれば良いと思っていました。当時は渋谷系が流行っていましたから。それと戦略。しっかりプランを練って、戦略的な制作、宣伝をしていく必要性は感じていました」
―そこで藤原氏は、有名なプロデューサーを新曲に起用することを考えた。
「当時スーパープロデューサー・ブームだったんです。長戸大幸さん、小室哲哉さん、小林武史さんなど。そこで、ぼくが宣伝担当をしたこともある久保田(利伸)さんに依頼したところ、“平井くん、曲を書いたり、自分のことは自分でやってるから必要ないのでは”と、最初は言われたんですが、久保田さんはシンガーとして平井が目標とするひとりであるし、今の平井に足りないものはなんなのか、久保田さんの教えを請いたいと伝えたら、OKのお返事を頂けたんです」
―それが、1997年7月リリースのシングル『HEAT UP』。
「当時の久保田さんはニューヨークに住んでいたのでニューヨークへ行ったわけですけど、予算がとにかく少なかったのでマネージャーには申し訳ないですが東京に残ってもらったんです。平井と僕のふたりで、エコノミーで行きました。ジャケット写真の撮影もしないといけなかったので、そのための衣装とアイロンも持って行きました。」
―ニューヨークでのレコーディング作業は、伴奏部分は東京で完成させていたので、歌入れ、それとボーカル・ディレクション。つまり、歌、コーラスを客観的に判断してもらい、シンガーとしての平井堅の魅力をさらに引き出し、歌詞や曲の世界観がより伝わるようリードしてもらうというものである。
「おもしろかったですね。久保田さんは、コーラスを先に録るんですね。普通はメインのボーカルを録って、それにあわせてサビのコーラスはこうしましょうかみたいなことになるんですけど、コーラスを先、メインのボーカルを後にするとタイミングをずらして歌うとか、遊ぶことができるんです。久保田さんは毎回そうしているらしく。それから、“楽器の音だけだとつまらないでしょ”と言って、イントロにコーラスを入れることにもなって。アドリブでいろいろとお手本を披露してくれて、すると、色彩が見えてきたんですよ。『HEAT UP』自体は白っぽい曲だったのに、久保田さんのアイデアを盛り込むことで黒っぽくなってきたんですね。久保田さんのブラック・フィーリング。メロディは白っぽいのに、コード進行にちょっとひねりを入れたりナオミ・キャンベルを起用することで黒さが生まれた『LA・LA・LA LOVE SONG』と同じ。初の海外レコーディングというのもありましたし平井も財産になったと思います。ぼくは、将来的に、平井には自分で自分をプロデュースする本物のアーティストになってほしいと考えていました。少しずつ平井にアーティストとしての自我が芽生え始めた時期でもあったので、その芽を大きく開花させたいと思っていたんですね。そういう流れで出来上がったのが『Love Love Love』なんです」
―伴奏はシンプルにピアノだけ、ゴスペルを導入、というアイデアは平井堅自身によるもので、1998年5月リリースの『Love Love Love』はその当時の平井堅のモード、モチベーションをしたたかに反映させた野心作となった。そのことはなによりボーカルに表れていて、狂気すら感じるすさまじく力強い歌いっぷりは、今聴いても相当に衝撃的だったりするのだが、このシングルも残念ながらヒットすることはなかった。
「コマーシャルな楽曲というわけでもなかったですし、ゴスペルが広く受け入れられるマーケットがあったというわけでもなかったですし、尺も長かった(5分28秒)。ただ、平井堅という旗はどうしても立てておきたかったので、成功や失敗ということじゃなく、今のうちにやっておかなきゃならないことはある、だったら思いっきりやってみようということで完成させた楽曲でした」
―翌年の1999年はなにもリリースされなかった。『Love Love Love』に続くシングルは2000年1月の『楽園』まで待たなければならなかった。その楽曲発表の機会を失っていた時期、平井堅は藤原氏に手紙を送っていた。
「当時はMISIAと宇多田ヒカルがデビューして爆発的に売れていて、いわゆる女性R&Bの時代だったんですけど、手紙で平井が、次は男性R&Bの時代が来る、そっちに僕を思いっきり寄せてみるのはどうですかと、提案してきたんです。で、打ち合わせで会ってみたら髪型がドレッドに変わっていて、すごく似合っていて、セクシーで。その頃に流行っていたエリック・ベネイやマックスウェルみたいな雰囲気があって、実際、ブラック・ミュージックをかなり聴いていたみたいなんですけど、日本でこんな人はいない、これはイケてるなと思いました」
―そこで藤原氏は平井堅のネクストをR&Bに確定させ、エリック・ベネイやマックスウェルのような楽曲制作を依頼することにした。
「平井の最後の1枚、最後の1曲になるかもしれなかったので、納得できる楽曲がほしかったんです。だから、いろんな人たちからたくさん集めることにしました。で、100曲くらいの中から厳選して、最終的に『楽園』になったんですが、良い曲が出来上がったという実感はありました。発売前に各方面の関係者に聴かせたところ、評判は上々でしたし、とくにラジオ局での反応が良かったです。」
―『楽園』を1枚でも多く売るために、藤原氏も積極的に動いた。たとえば、TBS系列で深夜にオンエアされていた情報バラエティ番組『ワンダフル』。スタッフと発案した企画を売り込んだ。
「この番組で取り上げられたものはヒットするジンクスがありました。そこで、“ヒットは極地から生まれる”というテーマを持ち込んで、平井堅を取り上げてもらえるよう、お願いに行きました。平井は札幌のラジオ局(AIR-G' FM北海道)でレギュラーを持っていたので知名度があって、実際、北海道の『楽園』の売り上げは発売当初から他の地域よりも良かったんです。だから、北海道代表は平井で、となると、南はどうしようということになって、PMエージェンシーという沖縄のプロモーターに問い合わせて、那覇のタワーレコードで1位になったイイ感じのインディーズバンドがいるからって、それがモンパチなんですけど(MONGOL800、1位を記録したのは1stアルバム『GO ON AS YOU ARE』のこと)。だったら平井とモンパチそれぞれのインタビューを取ろうということになって、ただ、こちらから持ち込んだ企画だったので、モンパチ側のセッティングもして、沖縄へ行ってインタビュー収録にも立ち会いました。その『ワンダフル』のオンエアは2月の真ん中くらいだったと思うんですが(2000年2月22日)、そのあと、やっぱり売れ方に拍車がかかりました。」
―藤原氏を「Tプロジェクト」に呼んだ吉田氏も動いた。宣伝費が少なかったため、セールスが好調だった北海道と福岡だけで『楽園』のテレビスポットを、金額の安い深夜帯に打つという発案だったのだが、画期的だったのは、そのCMにフジテレビ系ドラマ『ショムニ』でブレイクし、すでに人気スターとなっていた江角マキコを起用したことだった。
「今ではめずらしいことでもなんでもないんですが、芸能人がアーティストの新作のCMに出ることはない時代だったんです。人間関係だけでお願いしたと言いますか引き受けて頂けたと言いますか……収録は(1999年)12月30日くらいの、普通だったら年末でオフのタイミングで、ほんとうにありがたかったですし、戦略的アイデアを展開できる上司がいたことも大きかったです」
―ヘッドホンを着けて歌を口ずさむ江角マキコが、最後に「平井堅、『楽園』」とアーティストと作品を紹介するテレビCMは評判となり、北海道と福岡以外で見ることはできないのかといった問い合わせが相次ぎ、最終的には全国でオンエアされることとなった。ネット時代の今では考えられないエピソードだが、だからこそ、絶大な効果があった。完全に風向きは変わった。そして映像といえば、『楽園』のモノクロのミュージックビデオも話題を集めたが、こちらの予算も厳しかった。にも関わらず、海外でのロケ。シカゴでの撮影だった。
「100万円くらい。当時の日本だったらスタジオ代だけでそれくらいになってしまうのですが、海外に行って街中で撮ればお金かけずに絵になるんじゃないか、ということになったんです。社内に映像制作スタッフがいたので監督は出張費で行けるその人(笑)。平井とマネージャーはラジオのレギュラーでいつも札幌と福岡に行っていたので、ひどい話ではあるんですがマイレージが貯まってて、そのマイレージを使って飛んでもらいました(笑)。僕の予算はなかったので、今度は、マネージャーに衣装とアイロンを持って行ってもらいました(笑)」

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