INTERVIRE STAFF INTERVIEW

江本祐一

株式会社CROSS FM 編成・事業担当 エグセクティブプロデューサー

―通算8枚目のシングル『楽園』が大ヒットした2000年当時、多くの人たちにとって平井堅は真新しい存在だった。なぜなら、その当時ブームだったR&Bを歌う本格的な男性シンガーが、音楽シーンの最前線にはいなかったからということと、デビューから約5年が経過していたものの、それまでの平井堅にはヒット曲がなかったからである。とは言え、誰も知らない存在というわけでもなかった。詳細は後述するが、そのことをしっかりと裏付ける映像はあって、しかもそれは作品として残されている。1998年に発表された7枚目のシングル『Love Love Love』のミュージック・ビデオのことで、その制作に一役担った「ファミリー」のひとりが、江本祐一氏。当時、江本氏は福岡県のラジオ放送局であるCROSS FMで、平井堅がナビゲートを務めていた番組『Music Voice』の担当プロデューサーだった。
「転職で1996年に(局へ)入ったんです。たぶん、10月くらいのことだったと記憶しているんですけど、だから平井さんの番組はもう始まっていたんですね。枠組を作ったのは別のプロデューサー。その方が立ち上げた番組にぼくが乗っかったという形です。ラジオの業界は初めてだったので、だから最初は、とりあえず、ひたすらスタジオに入り浸り。『Music Voice』は夜中の12時からだったんですけど、ぼくが比較的立ち会うことの多かった番組で、そこでよくお会いする方々のひとりが、平井さんだったんです。ぼくが勝手にいろんなアーティストさんと親睦を深めて、ラジオ業界の流れなどを勉強する一環で切磋琢磨していた時代、プロデューサーとしてまだ駆け出しの頃でした」
―江本氏は180センチの長身。だから平井堅との初対面の印象は、「目線が同じ」。
「だいたい、ぼくより背の低い人が多かったので、首を傾けて喋らなくて良いんだなと(笑)。それと、なんと言っても話芸がすごい。芸人さんですよ(笑)。そういうトークの力とか、それでまわりを巻き込む力とか、もちろんとんでもなく歌がうまいとか、平井さんには突出した得意技がいくつもあって、これはおもしろい人だなということで自分は推していたんですね」
―平井堅の『Music Voice』のオンエア開始は1996年4月。デビューから1年も経たないタイミングでのレギュラー番組だった。
「当時のCROSS FMでの選曲は基本、洋楽だったんです。放送の7対3か8対2くらい、ほぼ洋楽。邦楽は、ちょっとしかかからない中でかけられるという希少価値の時代で、でもその頃、相当な数の新人さんがいらっしゃって、デビューして、自身のプロモーションとしてラジオの番組を持つことがひとつのトレンドになっていたんです。ただ、なかなか福岡までは来ないだろうと思っていたんですけど、意外や意外、まだ1枚当てるとビルが建つくらいの時代でしたから、メーカーさんにはかなり力を入れる財力の余裕もあって、福岡で番組をやりたいという新人さんは多かったんです。ぼくがリスナーだった時代もCROSS FMを聴いているとほぼ洋楽で、たまに邦楽がかかるとそれがセンス良い選曲で、そこからそのアーティストさんがブレイクすることもたしかにあったんですね。だから、アーティストさんの番組をベルト(帯番組。毎日、あるいは毎週、同じ時刻にレギュラーとして放送する番組のこと)にして、『Music Voice』という通しタイトルを付けて、サブタイトルを付けることによってアーティストさんの色分けをしていこうという展開になっていったんです」
―平井堅の『Music Voice』のサブタイトルは、『~聞いてもらってすいません!~』だった。
「正直言いますと、新人の方たちのデビューが多かったので『Music Voice』の枠は取り合いになっていったんですね。つねに“空きませんか?”みたいな問い合わせがメーカーさんからあって、でも新人さんはどんどん出てきますし、そこで、基本的には『Music Voice』は1年で卒業させてくださいと、内々のルールを作ったんです。新人の登竜門的なものですよと。でも、唯一特例だったのが平井さん。3年。ぼくが在職中に1年以上やったのは彼だけのはずです。意図的にぼくがそうしました」
―そこで江本氏が用意したエクスキューズは、ディレクターを変えるというもの。「内々のルール」を知る者を担当から外すというごまかしであったのだが、メリットはあった。
「ディレクターにいろんな経験をさせたかったこともあるんです。このディレクターとこのアーティストさんを合せるともっと化学反応が起きるかもしれないと考えて、ネタが豊富なディレクターをぶつけていったんです。すると少しずつ番組は変化していったんですね。平井さんの番組でも、平井さんのお母さんの声を録ってもらって、それでジングル・ボイスを作ったり、カラオケボックスへ行って歌ってもらったり、今の平井さんでは考えられないかなりの無茶振りをしましたけど、平井さんは受けてくれたんですよね」
―江本氏に、どうしてそんなにも平井堅のことを推していたのかと訊くと、「なんでだろう」と笑ってごまかされてしまった。が、推していた事実についてははっきり話してくれた。
「とある偉い方が某バンドのプレゼンに局へいらして、でもそのとき、“お宅のレーベルに平井堅がいるでしょう。こんなにも良い素材なのにパワー注いでくれないんだ?”って言いましたよ。当時、契約どうのこうのみたいな、ギリギリのところを平井さんは走っていたと思うんですけど、“これでもし平井さんの契約を切るようであれば、ウチはおたくの会社と縁を切る!”って。ぼくも向こう見ずなところがあるので(笑)。番組が始まって2年目か3年目のとき、“なんでそんなに推してくれるのかわからない”って、マネージャーさんが言ってきたこともありましたよ(笑)。まあ、当時の局にはファミリー的な空気があって、平井さんがそういう存在になってきていたということはありますね。平井さん、明るいんですよ。局には大きな広場みたいなスペースがあって、そこで打ち合わせをするんですけど、横を見ると違う打ち合わせをしているところが何箇所もあるんですね。アーティストの方々がたくさん来るので、東京の有名な局の控室みたいなことになるときもあって(笑)、平井さん、そこで目立つんですよ。からだの大きさもビジュアルも声もそうなんですけど、なんと言っても雰囲気が明るかった。それなりに付き合いが続いていくと、ちょっと落ち込んだり、なにかに悩んでいる姿を見せることもあったんですけど、そういったことも含めて、家族のような関係性になっていったんです」
―ヒットに恵まれない時期が続く中での付き合いだったわけだが、そのことに関して江本氏は「あえて立ち入らなかった」と言う。
「後ろからできることをする、ですよ。ただ、番組を続けていく中で、平井さんが変わっていったのが『歌バカ』というキャッチフレーズを自分で付け始めたあたりだとぼくは感じたんですよね。自分から発信をするようになっていった。それまでは、まわりから提案されたいろんなことをこなしつつも、自分の主張はどうしようかみたいな中で……『Ken’s Bar』を始めたのもそのあたりですよね?」
―1998年のことだ。平井堅自身の発案による『Ken’s Bar』開店の年で、第1回公演が行われた5月29日には、その日リリースの新曲が披露された。当時、傾倒していたゴスペルを大胆に採り入れ、まったく新しい平井堅をアピールした『Love Love Love』である。そして、この曲のミュージック・ビデオは、福岡市天神にある警固(けご)公園で撮影が行われた。
「どこからか、ビデオを福岡で撮ろうという企画が上がってきて、その前日が生放送だったので、“明日、警固公園にみんな集まれ!”とラジオで募ったんです。どれくらい来るのかと思ったら300人くらい集まって、ぼくも公園に行きましたが、世の中的にはブレイクしていなかったのに、福岡ではそれなりの認知度があるんだな、結構人気があるんだなって思いましたね。番組の評判も良かったですし。ビデオを見るとウチのディレクター陣も映ってはいるんですけど、サクラはなしです」
―公園で歌う平井堅と演奏するバンドのメンバー3人を取り囲むようにギャラリーが徐々に集まり、やがて彼ら、彼女らが手拍子しながらパフォーマンスを楽しむというその映像は、とにかく雰囲気が良い。じつに「ファミリー」的。しかし、残念ながらヒットはしなかった。ただ、ヒットはしなかったものの、ライブで歌い続けることで徐々に浸透し、今では平井堅のステージに欠かすことのできない、みんなのうたへと『Love Love Love』は成長した。そう、この曲のミュージック・ビデオには、のちの平井堅のライブでたくさんの人たちが体感することになるポジティブな空気が充満しているのである。江本氏は2000年9月にCROSS FMを退社(のちの2008年9月に復職)し、直後から海外での生活をスタートさせたのだが、江本氏もポジティブな空気を2001年10月5日に生で感じることとなる。
「平井さんがブレイクして、“ぶわーっ!”と上がっているときは日本にいなかったんですけど、それを直接肌で感じたのは、初の(日本)武道館。たまたま日本に帰って来ていて、運良く観ることができたんですけど、こんなにもたくさんの人たちを集めて歌っているんだ、信じられない、すごいって思いましたね。興奮していたので、本編が終わってアンコールの前にいっぺん外に出たら、吉田さん(吉田敬氏。当時、平井堅が在籍していたレーベルであるDefSTAR Recordsの代表取締役)も出て来ていて、そこでお互い、涙を流しながら、良かったねって話したのを憶えています。平井さんのようなミュージシャンは一生歌っていけるタイプと言いますか、息の長いアーティストになれると思っていたので、50歳になっても60歳になってもがんばってほしいです。歌う仕事をしているのにカラオケでも歌うのは、ほんとうに歌うことが好きだからなんでしょうね。25周年、まわりの人たちが思う以上に平井さんはいろんな形で歌っていると思いますし、好きだからこそ続けることができたと思うんです。25周年もすごいことですけど、50周年、目指してほしいですね。彼ならできると思います」

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