INTERVIRE STAFF INTERVIEW

樋渡隆弘

ライブハウス「新宿21世紀」代表取締役

―平井堅がデビューしたのは1995年のことである。しかしそれ以前に、対価を得る歌手としての活動歴はすでにあった。大学時代の約1年間、東京・新宿にある『ライブハウス新宿21世紀』の専属バンドのボーカルを務めていたのだ。アルバイト雑誌で歌手募集の求人広告を見て応募し、ならば、歌のうまさが決め手となって採用されたであろうと思うのは当然だが、意外なことにそうではなかった。平井堅を雇ったオーナーの樋渡隆弘氏は、当時をこう振り返った。
「いろんな人を雇ってはいたんですが、みんな好きな音楽をやっているというだけの人たちばかりだったんです。社会性がなかった。決められた時間にお店へ来ないし、ルールを守らないし、やれと言ったことをやらないし、だから、ギターがうまければ良い、歌がうまければ良いじゃなくて、きちんと一緒にビジネスができる人がほしかったんです。そこで、それまで大学生は雇っていなかったんですけど、優秀な大学生を集めてみようと思いまして、オーディションをやったんです。その中に平井堅がいたんですね」
―1991年のことである。樋渡氏はオーディションをする前、応募してきた学生に宿題を出した。平井堅にはビートルズの曲を20曲覚えてくるよう伝えた。
「ぼくはいま76歳なんですけれど(1944年生まれ)、ぼくらの世代のポピュラー音楽の基礎はやっぱりビートルズなんですね。ビートルズはとても大事なんです。だから覚えてきなさいと言って、オーディションで歌わせてみたら、ジョン・レノンでもない、ポール・マッカートニーでもない、平井堅のビートルズだったんですよ。彼独特のファルセット(裏声)で、彼だけのビートルズがあった。そこは良かった。ただ、平井堅よりうまく歌える人は他にいたんです。いちばん大事なのは、こちらが言ったことを守れる人なのかどうかで、ビートルズを20曲覚えてきてねと言ったら、平井堅はちゃんと覚えてきた。最初の約束ごとをしっかりと守った。そこが良かった。だから雇ったんです」
―『ライブハウス新宿21世紀』は、専属バンドによる生の歌と演奏をアルコールやソフトドリンク、食事とともに楽しむというスタイルの店で、レパートリーは洋楽、邦楽問わず、ポップス、ロック、歌謡曲、グループサウンズ、アニソン、ジャズ、ソウル、ラテン、ボサノバなど、3000曲以上あるとのこと。加えて、お客にはステージに立って歌うことができる楽しみもあって、すなわち、生カラオケ。機械から流れてくる伴奏で歌うカラオケにはないライブ感を味わうことができるのは、参加型ライブハウスの醍醐味と言える。
「平井堅はとても評判が良かったです。背が高くて、あのルックスで、性格は素朴。三重で育ったから、独特のイントネーションと間がある喋り方も良かったですね。知的だったし。仕事はきちんとやる人で、歌うだけじゃなく、お酒を作ったり、お客さんの相手をしたり……すると、平井堅目当てのお客さんもいらっしゃるようになるわけですよ。女性からも男性からも人気がありましたね。ただ、チヤホヤされてもニコニコしたりデレデレすることはなかったです。いつも涼しい顔。スタッフからも人気があって、平井堅が仕事に入っているときは、女の子はみーんなキレイな格好をしてお店に来るの。で、一所懸命働くの。“堅ちゃん、お部屋の掃除に行こうか?”なんて言う女の子もいて(笑)。でも、彼は乗らなかった。遊びに誘われても、学校がありますからって。学校がありますからとか言ってるのに、試験中もお店を休むことはなかった。ほんとうに仕事熱心だったんです。営業が終わるとみんなでお店の掃除をするんですけど、それも一所懸命。トイレ掃除だってちゃんとやってくれた」
―ひたすら真面目に働く平井堅をつねに好意的に、肯定的に見ていた樋渡氏だったが、将来のことに関してだけはきっぱりと否定的な態度で接した。
「学校を出たらどうするのかって訊いたら、歌手になりたいって言うから、いやいや、歌手は大変だよと。せっかく良い大学に行ってるんだから、NHKの就職試験を受けて、音楽番組のディレクターにでもなりなさいって言ったの。音楽の担当になれば、好きな音楽で一生仕事ができるんだよって。紅白(歌合戦)出してやるからとか出さないとか、偉そうなことを言ってれば良いじゃないかって(笑)、そんなことも言った憶えがありますよ。だって真面目なんだもの。真面目真面目。音楽業界、ガチガチな人は合わない。不良も多い(笑)。そんな業界に入れたくないじゃないですか、親心としては。平井堅のことはね、ほんとうに可愛いと思っていたし、大好きでしたから。でも本人は、歌手になりたいって。歌手になるって。迷いなし。真面目すぎるから歌手には向かないよって言ったんだけど」
―平井堅が音楽業界へ進むことを反対した樋渡氏は、じつは、自身も音楽業界へ進もうとしていた時期があった。平井堅と同じ、大学時代のときのことである。
「学生時代にバンドをやってまして、続けたいと思っていたんですが、母親から、いい加減にしなさい、そんなことしてないでちゃんと卒業してちゃんとしたところに就職しなさいって……ぼくが平井堅に言ったようなことは自分の親から言われていたんですね(笑)。で、就職先が決まったものですから、バンドを辞めたんです」
―樋渡氏が在籍していたのは、なんと、ピンキーとキラーズの前身バンド。そこでギターとボーカルを担当していたのだが、ピンキーとキラーズが1968年に『恋の季節』でデビューする1年前に辞め、大手自動車会社に勤務。優秀な営業成績を挙げ続け、幾度となく社内表彰を受けていたのだが、セールスマンとしての生活は約4年で終了する。高度経済成長期の1970年に被害が初めて明らかになったと言われている光化学スモッグ問題が原因だった。
「一生の仕事にしようと思ってはいたんですが、車の排気ガスで公害が発生するようになって、自分の仕事は社会のためになっていなかったのかと思っちゃったんですね。それでもう一回、音楽をやりたいなと考えたんです。若いミュージシャンを育てたい、日本一のミュージシャンを出したい、音楽で人を笑顔にさせたいって、大学時代の仲間に言ったら笑われましたし、両親の反対もあったので、自分の中でも戦いはあったんですけど」
―これが『ライブハウス新宿21世紀』誕生の経緯で、前身となるスナック『センチュリー』を1974年に開店。その2年後に場所を現在地に移転し、『ライブハウス新宿21世紀』を開店。専属バンドからは何人ものアーティストを輩出することになったが、その中でもっともメジャーな存在が、平井堅である。
「有名になってからNHKの番組でお店に来ましたよ(2002年4月にオンエアされた音楽番組『ミュージック・カクテル』)。ぼくに会いに来るという内容で、(1992年に)お店を辞めて以来のことでしたから懐かしかったですね。平井堅も懐かしいとかなんとか言いながらキッチンのほうにも行って、匂いが昔のままですねって。匂いに反応するのか、おもしろい反応をする人なんだなって思いました」
―その後、平井堅は2017年8月オンエアのフジテレビ系トーク番組『トーキングフルーツ』の収録で再び来店。ホストを務める古舘伊知郎とのトーク、そして当時の最新シングル曲『ノンフィクション』の披露を店内で行った。大学時代、歌手になることを夢見ながら歌っていたステージでのパフォーマンスだった。
「ヒット曲が出るまでちょっと時間がかかっちゃったけど、売れたことはほんとうにうれしかったですね。だって若いミュージシャンを育てたい、日本一のミュージシャンを育てたいということで始めたお店でしたから。『大きな古時計』はものすごく売れましたけど、子供からお年寄りまでがあの歌を楽しんだ。売れただけじゃなく、たくさんの人たちから愛される国民的な歌手になった。真面目すぎるから歌手には向かないよって本人には言っちゃってたけど(笑)、その道しかないと平井堅自身が決めて、それを諦めなかった結果ですよね。健康に気をつけて、これからも大勢のファンを楽しませてもらいたいね。健康に気をつけないと病気になって、ファンの人たちを悲しませることになっちゃうから。60歳、70歳になっても、白髪頭になっても歌っていてほしいです」

Ken Hirai Interview Top

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